社会貢献ってやつ。
自由大学の「キュレーション学」を受講したのは昨年のGW。
まだ8ヶ月、もう8ヶ月かぁ。
実現したい講義があって、参加したい講義もあって。
色々見るようになったし、考えるようになった。まだまだ甘ちゃんだけれども。
そんな中、自由大学のレクプラで、自分のアタマの中とつながるような話題があったから、ブログに書いてみる。
思考は全く整理されていないし、ただの断片寄せ集めになるかもしれないけど。
付箋はすぐに東大生のノートのようにうまくまとめられはしないだろうけれど、まとめようと試みることで何か気付くことがあると良い。
【フリユニクラブ】1月のレクチャープランニングコンテスト。ベストプランニング賞は同率一位。大野さんの「いろんなかたちの社会貢献学」と、高橋さんの「クラウドファンディング学」です。おめでとうございます!( #自由大学 live at ustre.am/l72R)
— 自由大学 FreedomUniv (@FreedomUniv) January 26, 2013
どちらも興味がある。
特に「いろんなかたちの社会貢献学」。
どんな内容か知らないけれど、題名からすると、「社会貢献」という漠然としたものを、もっと身近に感じてもらうための講義なのかなーと。
「iPad?何それ。PCあるしいいよ」って思ってた私に、「iPadのあるライフスタイル」を見せてくれたカフェ。
「電子書籍?紙が好きだから、普通に本買うよ」と言っていた私に「TwitterのTLで見かけたおもしろそうな本を30秒後には読んでいる」という体験をさせてくれた人。
それらと同じように、この講義は「社会貢献」の意味を再定義して見せてくれたり、実例をあげて身近に感じさせてくれたりするんじゃないか。
「社会貢献」のバリアフリー化。
受講できたら、視野も活動も広がりそうだなー。
「社会貢献?何それ、なんだか敷居高い」と言っていた人々に、「アナタの趣味も「社会」に「貢献」しているよ」という当たり前だけど本人が気付かなかった事実を説くのか、「こんな活動があるよ」と紹介して「これならできるかも!」と共感してもらい「社会貢献」の世界に足を踏み入れてもらうとっかかりにするのか。
うーん、講義内容が気になる。おもしろそう。
そんなわけで、ちょっと惹かれてUstを見てみた。
で、考えさせられたのが、「社会貢献」って名がちょっと…っていう指摘。
そうそう!私もそう思った。
興味がある話題だから気にはなったけど、「社会貢献学」って言葉だけを見て受講したいとは思えなかったのだ。
私は、社会貢献ってやつに、なんだか敏感になりすぎているのかもしれないが。
私が小学生の頃、滋賀ではガールスカウトがそこそこ盛んで、うちは母と姉と3人で通っていた。
そこではボランティアも寄付をする活動も寄付を募る活動もあった。
世界中、日本中の問題を、小中学生の私たちに自分で考えさせて、「自分事」にさせて、「相手にも喜ばれるし自分たちにもできるちょっとしたこと」をさせてくれていた。
やらされたと思ったことはなかったし、逆にものすごい熱い想いがあったわけでもなく。
寄付もボランティアも、日々の、 当たり前のこととして捉えていたのだ。
そう、それは特別なことじゃなくて日常だった。
その後、関東に引っ越したのだけど、新しい友達に「ガールスカウトってないの?」と訊いたら「え、あの募金活動するやつ?なんでそんなのやるの?良いところの子なの?」とか「ボランティアしちゃうんだ。まじめちゃんだね、良い子ー」って言われたりした。
多感な14歳。それからは「ガールスカウト」って単語は言わないことにした。
社会人になって、毎月お給料をいただけるようになった。
早速大好きなフローレンスのサポート隊員になった。
会社の人と話している時に、病児保育の話になりフローレンスの説明をしたところ、「なんでそんなに知ってるの?」と。
「好きなんです」といえば良かったのだけれども、「サポート隊員なんです」と言ってしまった。
そしたら「寄付かー、私には敷居が高いことだなー」「社会貢献ってやつかー」と言われた。一歩引かれた、少し笑われた、と感じた。
中学時代の自分を思い出して、何も言えなかった。
寄付をしていることは言わないことにした。
もちろんこんな反応ばかりではない。
そのまま受け止めてくれる人もいる。
でも、こういう反応多いのも事実。
(そして私みたいに、恥ずべきところではないのに隠してしまう人が多いのも事実。)
「社会貢献」ってなんだろう。
登校する小学生を見守るために毎日角に立ち続けている町のおじさんも、日本をよくしたいと立ち上がった若い政治家も、お年寄りの話を聞くボランティアをしているという穏やかな彼も、たくさん稼いでたくさん税金納めているあの企業も、海外で作った商品を適正な価格で買い上げて日本で販売している笑顔のステキなあの人も、100円を青いユニセフの箱に入れたいつかの小さな男の子も、現地の人に技術を伝え続けているあの大企業も、人をたくさん笑わせているひょうきんな親戚のあの子も、こども会の役員としてBBQイベントを必死で盛り上げる若いお父さんも。
みんなみんな「社会」に「貢献」しているじゃないか。
「社会貢献」って聞いて、みんな何色を思い浮かべるのだろう。色が感じられない。
人が見えない。
さっきの「社会」に「貢献」している人達が、急にぼんやりと遠くに行っちゃう気がする。
(うーん、やっぱりとらわれ過ぎなのかなー、この単語に。)
「社会」に「貢献」してない人なんていないんじゃないか。(夢見過ぎ?)
それが大前提だとしたら、「社会貢献」って、自分と社会との関わり方がどうなっているのかってだけの話なのかもしれない。
社会との接点の一つとして、寄付やら仕事やらボランティアやら子育てやらがあって、自分はどれで特に接点を持ちたいか。自分にはどれができるのか。どれなら皆に喜んでもらえるのか。
「アフリカではマラリアで○秒に○人の子が死にます」っていうTV番組を見た時、何かしたいと思う人は、考える。
「将来は研究者になって、この病気を僕がなくすんだ!」
「アフリカで現地の人々に啓蒙活動をしている団体に1,000円寄付をしよう」
「まずはこの事実をブログに書いて皆に伝えよう、そして何ができるかのアイデアを皆で考えたいな」
「力仕事が得意な自分は、生活環境改善の整備をするために、労働力を提供する!」
様々な考えがあってイイ。いや、あるべき。
この、関わり方は複数あるんだという視点、ちょっと背伸びしたらできるくらいのことをやればいいのだという姿勢。
それが広まれば。
(個人的には「ちょっと背伸び」がポイントだと思ってる。「できる範囲」ばかりでは世界は変わらない。「今回だけ」と無理するよりも継続できたほうが良い。だから「ちょっと背伸び」。元々敷居を下げてくれる人がいると、敷居低い+ちょっと背伸び⇒大きな可能性 になる。)
高いところにあると思っていた世界が、実は敷居をまたいでみたら自分の世界と同じ高さだったという、オチ。
「魚を飼うということは、水を飼うということである」というのは糸井さんの言葉だとか。
http://sat05.hatenablog.com/entry/2012/07/25/223000
自分の家族、自分の町、自分の学校、自分の国、自分の住む地球。
そこが澄んでいると、イイ。
そこと自分との接点があるとイイ。
そこに自分が参加できているとイイ。
それが結局社会貢献ってやつになるんじゃないかな。
アナタは何で社会と接点をもつ?
私はどの武器を持って社会に参加しよう?
■自分の中で関連してると思った過去の思考の断片
フローレンス駒崎さんのブログがすごく良い。『社会を変えるお金の使い方|投票としての寄付 投資としての寄付』の“政治家や官僚だけが世の中を良くできるのではありません。我々「気づいた個人」が、事業によって社会問題を解決していく。”を思い出す。一貫した軸をお持ちなのだなぁ。 ⇒
⇒政治においても、「気づいた個人」が、投票して参加して一緒に社会問題を解決していかなきゃ。うん、このブログと本を読み返そう。そして行動を。 フローレンス駒崎さんブログ『放置して消費する政治はもうやめて、参加して育てる「育政」をしよう!』 komazaki.seesaa.net/article/306417…
— Sato (@aoakua_jp) December 12, 2012
フローレンスの「アニュアルレポート2011」が届いた
http://aoakua.hatenablog.com/entry/2012/11/23/23500
未来を見せてくれる人
http://sat05.hatenablog.com/entry/2012/07/21/230000
追記
『私たちはこの世では大きいことはできません。 小さなことを大きな愛でするだけです』 マザーテレサ。昨日の社会貢献の話にもつながるけれども。
— Satoさん (@aoakua_jp) 2013年1月27日