ハグハグ。

久々にお友達に会ったら、いきなり、ぎゅーーーーーとされました (〃ノдノ)照。

 

ハグできる、そんな余裕が彼女にできてたことが、嬉しかった。
会った瞬間に笑顔だったことが、ものすごく嬉しかった。

 

 

昨年2月に会った時は、疲れているのがわかった。
帰るとき友達が、「ありがとう、また頑張れそう。次会うときまで頑張るからね。」と言うから、

 

どうか頑張りすぎないで、

もっと周りに頼っていいんだよ、

またすぐ来るからね、

そんなことを言いたかったけど、ウルウルきちゃって声が出ず、、、友達をハグハグしてみた。

 

6月に会った時は、だいぶ元気になっていたけれども、時折泣きそうな表情だった。
またハグハグした。

http://sat05.hatenablog.com/entry/2012/06/18/232220

 

 

あれから約半年。
まさかの笑顔笑顔の再会で、ぎゅーーーーってされて、もう泣きそう。
彼女が気にしている目じりの皺が、超かわいく見えた!!!
笑顔万歳。

 

余裕がでてきたんだなぁ。
ベビちゃんも大きくなったなーーーーー。

 

大好きな女性が「子育ては期間限定」といつも言われているのだけれど、本当に子育ては期間限定なのだなぁー、「今」なのだなぁーとしみじみ思った。


いつまでも同じ忙しさ・同じ苦しみは続かない、こどもは大きくなるから。
今が過ぎれば、必ず時間も余裕もできるのだ。
いつまでも同じだけの時間・同じ距離感は続かない、こどもは大きくなるから。
今が過ぎれば、こどもは新たな世界を見つけて一定の距離離れるものなのだ。
嬉しくも寂しくもあるだろうな。

 

あーこどもが欲しい。
その前に結婚だ!笑 

 

 

 

アツくもなるし、つっぱしりもするけれど、いつでもほんわかいたい。 

にっこり笑顔とのよゆーのハグで、頑張っている人をほんわかゆるめられたらいいな。

 

大好きなトルコのほんわかレストラン。

あたたかい。

 

 

社会貢献ってやつ。

自由大学の「キュレーション学」を受講したのは昨年のGW。
まだ8ヶ月、もう8ヶ月かぁ
実現したい講義があって、参加したい講義もあって。
色々見るようになったし、考えるようになった。まだまだ甘ちゃんだけれども。

 

そんな中、自由大学のレクプラで、自分のアタマの中とつながるような話題があったから、ブログに書いてみる。
思考は全く整理されていないし、ただの断片寄せ集めになるかもしれないけど。
付箋はすぐに東大生のノートのようにうまくまとめられはしないだろうけれど、まとめようと試みることで何か気付くことがあると良い。

 

 

どちらも興味がある。
特に「いろんなかたちの社会貢献学」。
どんな内容か知らないけれど、題名からすると、「社会貢献」という漠然としたものを、もっと身近に感じてもらうための講義なのかなーと。 

 

iPad?何それ。PCあるしいいよ」って思ってた私に、「iPadのあるライフスタイル」を見せてくれたカフェ。
電子書籍?紙が好きだから、普通に本買うよ」と言っていた私に「TwitterのTLで見かけたおもしろそうな本を30秒後には読んでいる」という体験をさせてくれた人。

 それらと同じように、この講義は「社会貢献」の意味を再定義して見せてくれたり、実例をあげて身近に感じさせてくれたりするんじゃないか。
「社会貢献」のバリアフリー化。
受講できたら、視野も活動も広がりそうだなー。 


「社会貢献?何それ、なんだか敷居高い」と言っていた人々に、「アナタの趣味も「社会」に「貢献」しているよ」という当たり前だけど本人が気付かなかった事実を説くのか、「こんな活動があるよ」と紹介して「これならできるかも!」と共感してもらい「社会貢献」の世界に足を踏み入れてもらうとっかかりにするのか。
うーん、講義内容が気になる。おもしろそう。 


 

そんなわけで、ちょっと惹かれてUstを見てみた。
で、考えさせられたのが、「社会貢献」って名がちょっと…っていう指摘。

 

そうそう!私もそう思った。
興味がある話題だから気にはなったけど、「社会貢献学」って言葉だけを見て受講したいとは思えなかったのだ。
私は、社会貢献ってやつに、なんだか敏感になりすぎているのかもしれないが。

 

 

私が小学生の頃、滋賀ではガールスカウトがそこそこ盛んで、うちは母と姉と3人で通っていた。
そこではボランティアも寄付をする活動も寄付を募る活動もあった。
世界中、日本中の問題を、小中学生の私たちに自分で考えさせて、「自分事」にさせて、「相手にも喜ばれるし自分たちにもできるちょっとしたこと」をさせてくれていた。


やらされたと思ったことはなかったし、逆にものすごい熱い想いがあったわけでもなく。
寄付もボランティアも、日々の、 当たり前のこととして捉えていたのだ。
そう、それは特別なことじゃなくて日常だった。
 

その後、関東に引っ越したのだけど、新しい友達に「ガールスカウトってないの?」と訊いたら「え、あの募金活動するやつ?なんでそんなのやるの?良いところの子なの?」とか「ボランティアしちゃうんだ。まじめちゃんだね、良い子ー」って言われたりした。
多感な14歳。それからは「ガールスカウト」って単語は言わないことにした。

 

社会人になって、毎月お給料をいただけるようになった。
早速大好きなフローレンスのサポート隊員になった。
会社の人と話している時に、病児保育の話になりフローレンスの説明をしたところ、「なんでそんなに知ってるの?」と。
「好きなんです」といえば良かったのだけれども、「サポート隊員なんです」と言ってしまった。
そしたら「寄付かー、私には敷居が高いことだなー」「社会貢献ってやつかー」と言われた。一歩引かれた、少し笑われた、と感じた。
中学時代の自分を思い出して、何も言えなかった。 
寄付をしていることは言わないことにした。 

 

もちろんこんな反応ばかりではない。
そのまま受け止めてくれる人もいる。
でも、こういう反応多いのも事実。 
(そして私みたいに、恥ずべきところではないのに隠してしまう人が多いのも事実。)

 

「社会貢献」ってなんだろう。

 

 

登校する小学生を見守るために毎日角に立ち続けている町のおじさんも、日本をよくしたいと立ち上がった若い政治家も、お年寄りの話を聞くボランティアをしているという穏やかな彼も、たくさん稼いでたくさん税金納めているあの企業も、海外で作った商品を適正な価格で買い上げて日本で販売している笑顔のステキなあの人も、100円を青いユニセフの箱に入れたいつかの小さな男の子も、現地の人に技術を伝え続けているあの大企業も、人をたくさん笑わせているひょうきんな親戚のあの子も、こども会の役員としてBBQイベントを必死で盛り上げる若いお父さんも。
みんなみんな「社会」に「貢献」しているじゃないか。 

 

「社会貢献」って聞いて、みんな何色を思い浮かべるのだろう。色が感じられない。
人が見えない。
さっきの「社会」に「貢献」している人達が、急にぼんやりと遠くに行っちゃう気がする。
(うーん、やっぱりとらわれ過ぎなのかなー、この単語に。) 

 

 

「社会」に「貢献」してない人なんていないんじゃないか。(夢見過ぎ?)
それが大前提だとしたら、「社会貢献」って、自分と社会との関わり方がどうなっているのかってだけの話なのかもしれない。
社会との接点の一つとして、寄付やら仕事やらボランティアやら子育てやらがあって、自分はどれで特に接点を持ちたいか。自分にはどれができるのか。どれなら皆に喜んでもらえるのか。

 

「アフリカではマラリアで○秒に○人の子が死にます」っていうTV番組を見た時、何かしたいと思う人は、考える。

「将来は研究者になって、この病気を僕がなくすんだ!」
「アフリカで現地の人々に啓蒙活動をしている団体に1,000円寄付をしよう」
「まずはこの事実をブログに書いて皆に伝えよう、そして何ができるかのアイデアを皆で考えたいな」 
「力仕事が得意な自分は、生活環境改善の整備をするために、労働力を提供する!」 

様々な考えがあってイイ。いや、あるべき。

 

この、関わり方は複数あるんだという視点、ちょっと背伸びしたらできるくらいのことをやればいいのだという姿勢。
それが広まれば。

 

(個人的には「ちょっと背伸び」がポイントだと思ってる。「できる範囲」ばかりでは世界は変わらない。「今回だけ」と無理するよりも継続できたほうが良い。だから「ちょっと背伸び」。元々敷居を下げてくれる人がいると、敷居低い+ちょっと背伸び⇒大きな可能性 になる。)

 

高いところにあると思っていた世界が、実は敷居をまたいでみたら自分の世界と同じ高さだったという、オチ。 

 

 

「魚を飼うということは、水を飼うということである」というのは糸井さんの言葉だとか。
http://sat05.hatenablog.com/entry/2012/07/25/223000

 

自分の家族、自分の町、自分の学校、自分の国、自分の住む地球。
そこが澄んでいると、イイ。
そこと自分との接点があるとイイ。
そこに自分が参加できているとイイ。 

 

それが結局社会貢献ってやつになるんじゃないかな。

 

アナタは何で社会と接点をもつ?

私はどの武器を持って社会に参加しよう?

 

 

■自分の中で関連してると思った過去の思考の断片 

 

フローレンスの「アニュアルレポート2011」が届いた

http://aoakua.hatenablog.com/entry/2012/11/23/23500

 

未来を見せてくれる人

http://sat05.hatenablog.com/entry/2012/07/21/230000

 

追記

日々是好日。

頓智ドットが提供するサービス「tab」で、
“本を片手に向かうカフェ” http://tab.do/streams/3764 というtabをつくってます。

 

その中で95人にtabしていただいてるのが、ブルックリンパーラー! http://tab.do/items/20277  

 

嬉しいなぁ。
なんだか、この気持ち分かってくれる人がこんなにいるなんて!!!という感じ。

 

今まで「承認欲求」とかよくわかんなかったけど、
でもこれは、なんかすっっっっごい嬉しい。 

 

しつこいけど、、、本当に嬉しい!!!

 

 

日々の中にこういう喜びがあるから、毎日生きていけるのだなぁ、と思う今日この頃。
平凡な日常にこそ「ほっこり」する瞬間がある。
「嬉しい」を、「ほっこり」を、感じられるのなら大丈夫。 

 

 

日々是好日。

無駄

最近自分の中で余裕がなくなってきている気がする。
無駄を減らしすぎている。

 

4ヶ月前に「無駄で優雅」というブログを書いたばかりなのに。
全然「無駄」がない。

 

 

あーーーもっともっと人生楽しみたい。

もっともっと人が喜ぶ姿を見たい。

もっともっと皆の笑顔が見たい。

まだまだまだまだ動いていたい。

 

どうも余裕がなくなってくると、顔がぎゅーーーーーーってなっちゃう気がする。
「 いつも笑ってるよ、全然顔に出てないよ」って言われるけれども、私の中では、ぎゅーーーーっなのだ。

 

「いつも心に太陽を」と歌った人は誰だっけ。
映画もあったとか聞いたような。
使い古された(?)言葉だけど、イイ言葉だなぁ。 

 

いつも心に太陽を。

 

 

まとまらなーーーーーい。

 

 

 

-------前のブログで書いた「無駄で優雅」-------------

ここ最近映画見てないし、美術館行ってないし、ライブ行ってない。

 

なんだか文化吸収できてない。

 

消費する一方。

 

なんかざらっとしてくる。

 

 

「お父さんがいて、こどもがいて、近所の人にも恵まれて、本が読めて、美術展に行けて、好きな歌手のCDが聴けて、ヨガができて、おいしい野菜が食べられて、私幸せ。欲を言えば、あとは、もう少し音楽のイベントがあればいいのにな。」と 母親が言っていた20年前。

 

私にも本を買ってくれ、美術館に連れて行き、音楽を聴かせてくれた。
勉強しろ、と言う前に、文化を体験させてくれた。そこで勉強の大事さも知った。 

 

 

「よく食わず嫌いで批判する人がいるけれど、それは違う。歌舞伎はつまらない、本当にそうか?現代アートは意味がわからない、本当にわからなかったか?
実際にやってみた後に感想・意見を述べなさい。」と現国の先生に言われた13年前。 

 

歌舞伎に行く前は授業で歌舞伎の説明があり、オススメ本を教えてくれ、愉しみ方を教えてくれた。 
つまらない、好きではないと思うものもあったし、すごく惹かれる芸能もあった。 

 

 

「社会を知りたい、働きたい場所がある、お金を稼ぐ大変さを実感したい、と目的あってのアルバイトならしてもいい。お金を得るためだけのアルバイトに追われる毎日はだめだ。学生時代は、勉強し仲間と楽しみ、せっかく東京にいるのだから文化を吸収しなさい」と父に言われた10年前。

 

そっか、もう誰も連れて行ってくれないんだ、自分で探して行かなきゃいけないんだ、と当たり前のことを知り、また一人暮らしの中でどんなに「無駄」が大事かを実感した。

 

社会を知りたくて、旅に出る資金が欲しくて、アルバイトはしたけれど、文化に触れるようには心掛けていた。

 

 

歌舞伎、文楽、アート、演劇、写真、映画。

 

その頃に得た文化を消費しっぱなしな気がしてならない。

 

文化は完全に自分の中から出ていくものではないけれど、インプットがなければやっぱり霞んでゆく気がする。

 

時間ができればできるほど、そういう「イイ無駄」を置いてきちゃう。

 

 

ブルックリンパーラーの「人生における無駄で優雅なもの、ぜんぶ。」というコピーが大好き。
http://www.brooklynparlor.co.jp/ 

 

 

どんなにお金が無くても、仕事に没頭していても。

無駄で優雅なものが詰まった生活を送りたい。

ラベルをつけてはがすのが好き

人が好きです。
ラベルをつけてはがすのが好きです。

 

 

つきあっているうちに、話の内容や態度からその人の傾向がわかってくる。 
「流行りものが好き」「面倒見のイイおにいちゃんタイプ」「あまのじゃく」…色々。

 

というと、
「この人“流行りものが好き”なんだな!じゃあこういう話題ふってみよう」というふうにいつも考えてるのか?
ラベルを貼って、色眼鏡通して見てるのかな?
と思われそうだけど、そういうのではなく。
初めはぼやーっと自分の頭の中で勝手に分類されている感覚だから、全くそんなこと意識してない。

 

日々の生活では、意識することはほぼなくて個人を見ているつもり。
あくまでも自分は「○○さん」という1人の人間単位で見ているつもり。

例えば、仕事で「こういう仕事をまかせるのに適した人いるかな?」と先輩や役職者に訊かれたとき、仕事の飲み会の人選をまかされたとき、プライベートで「あの人とうまくいかない」「こんなこと言われたんだけど、どう思う?」と言われたとき…
そんなときにポーンと頭の中に人やラベルが思い浮かんできて、自分なりの答えが出る。

で、「あっっ、そっか、私こう思ってたんだ!」「そうだ、○○さんはいつもこう言うもんなぁ」って急に結びついていく。

 

 

そこまできたら、次にその「ラベル」をはがす、これが楽しい。
自分でつけたラベルを見つつも、「○○さん」をまた見ていく。 

 

 

人間って単純にラベルでは表せないし、同じ「面倒見のイイおにいちゃんタイプ」だからって同じ人間ではないし、1人には何枚ものラベルがあるはず。
 

「面倒見のイイおにいちゃんタイプ」って思ってた人と実際話してみて、「うんうん、やっぱ面倒見のイイおにいちゃんだなー、でも実はこういうところもあるんだ」「おにいちゃんタイプだけどなんか違うなーって思ってたら、実際は妹じゃなくて弟がいるのかー、だから面倒見がイイっていうより見守り系なんだな」とか。

そういうのが楽しい。
ちらりと「ラベル」を見ることで、逆に「ラベル」とは違うところが見えるというか。
その人の一部を意識の片隅におくことで、他の良い部分がいっぱい見えるというか。

 

この頭の中を言葉にすると、「ラベルをはがす」というよりも、
「ラベルを増やす」「ラベルに追記する」「ラベルを差し替える」ってほうがぴったりなのかもしれないけれど、
全体のイメージは「ラベルをはがす」なのだ。
たくさんラベルが貼られると、結局ラベルひとつひとつは意識しづらくなるし、最終的には個人を見ているのだから。

 


「この人ってこうだよね」的な話はいやがられがちだ。
「レッテルを貼る」とか「イメージを押し付ける」とか確かにイヤだもんね。

 

それって「この人ってこう」というラベリングがイヤというより、
「この人ってこう(なハズ)。」=だから、あんなことするのはおかしい
「○○ちゃんは頭がいい。」=だから私たちと一緒に遊ぶはずが無い
っていうように、1人の人に1枚(だけ)のラベルを貼って押しつけるっていうのがイヤなんだと思う。 

 

(あと、マイナスイメージのラベリングも当然×。良いとこ見ようよ。) 

 

そもそも人には色んな人格があって。

 

「甘えん坊」なのに「しっかりしてて精神力が強い」子ってよくいる。
例えば、「末っ子で普段は甘えん坊。ニコニコ穏やか頼りない印象にも見えるけど、追い込まれると強さを発揮する」子とか。
それを1枚のラベルで表すと普段目立つ部分だけが取り上げられて「あの子は甘えん坊(=だから、リーダーは無理だよね、遂行する力がないよね)」となっちゃう、それって違うよね。

 


まずは、人は複数の人格を持っていていいし、場面ごとに別の人学がでてきていい、っていうことを認識しなければ。
何千何万とある様々な種類の「ラベル」の中からそれぞれが単百何千と持っているのだ。

 

そう考えるとその子にぴたりと合う「ラベル」を見つける(作る)のは楽しいし、またそれをはがすのも楽しい。

着火

やる気も実力もある後輩がいる。
頭がいいし仕事もできて、そこが先に見えてしまうから、優しさが後ろに回ってしまうというか、見えづらい。でも本当はすごく深い優しさがあるなーっていつも感じてる。

 

そんな後輩だけど、
一番すごいところは、自分で「着火」できるところではないかと思う。

 

とにかく「やる気」がすごい。
「やる」と決めてから終わらせるまでの熱の持続がすごい。
皆がやりたくない仕事がアサインされた時や上司の反対にあった時にも、自分の気持ちに火をつけて、完遂まで突き進んでいる。

 

仕事も、「やる気はあります!何でも言ってください!」「何かやりたいです!何やればいいですか?」ではなく、自分で問題見つけて自分でガシガシ進めていってる。
けっこう「何でも言ってください!」って言いつつ待っているタイプって多いから、実際動いていけるってすごいなぁと。

 

1人でがーーーっとやってるんだけど、一生懸命やってるから、つい巻き込まれてもいいやって気になるんだよなぁ。

 

あたたかいところには、人が集まる。

 

 

 

私は着火が苦手。

小さい頃から「できないよ」って言うと「やればできるから大丈夫」って言われてきた。
小6の頃だったかな、一度 「“やればできる”は“できない”の同義語だよ!“やれば”でしょ、私はその“やる”ができないの!」って言い返したことがある。
(ヤなこどもだな…) 

 

昔から自分でやる気を出せないこどもだったのだ。

 

好きなことをやる、ってこともなかった。
部活も仕事もなんとなく興味あるものを選んで、なかなかできないから一生懸命やるしかなくて、気づいたら大好きになってたってことが多い。

 

そんな自分は好きではなかったから、昔の自分が後輩に出会ってたら、うらやましくてたまらないと思う。
自分のダメさに気づいて、傷ついて、憧れながらも嫉妬してたかも。笑

 

 

今なら、「そこがステキだね!」って言える。
きっと自分では気づいていない良さを伝えてあげられる。

 

そんな自分になれていて良かったな。 

 

 

まぁでも自分で「着火」できる人間になりたい、という願望は消えないけれど。
少しずつ。

 

そういえばCAMPFIREのプロジェクトが始まる時の「着火!」も好きです。

 

自分の魂ってなんだ

先日、MEDIA MAKERSを読んだ。
kindle版1,000円切ってるしお得ー!と思ってポチリ。 

MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 (宣伝会議)

MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 (宣伝会議)

 

知っていた・感じていたことが、より明確に落ちてきた。
知っているのとわかっているって全く違うなぁ、ってあらためて思った。
おもしろい。


その中で、あれっ?って引っかかりがあったのが、エルメスのお話。

“「自分たちは何屋なのか?」という問いに対して「馬具メーカーである」と答えることをやめた”

“自分たちのコア・コンピタンス(「自社ならでは」の競争優位の源泉)を一度、抽象化させたうえで再定義し、馬車から自動車へという技術環境の変化に、見事に対応した” 

 

これ見て、以前糸井さんがTwitterで紹介されていた宋文洲さんのメールを思い出してしまった。
“ソニーのテレビ事業は未だに辞められません。「ソニーの魂」というのですが、決断のタイミングを逸しているだけです。「ソニーの魂」はテレビではなく、開拓の精神と挑戦の勇気だと思います。”

 

うんうん。


(関係ないけど「ソニー銀行」は正解だったと思う。開拓・挑戦。)

 

今、会社では組織変更があり、業務は同じとしつつも視点を変える必要がでてきた。
何を捨てて、何に賭けるのか。一段高い視点を。一段と広い視野を。

“魂”を間違えたら、大変なことになる。 

 

プライベートも今年は勝負の時。
自分の得意なものは何か?社会に貢献できる、社会に喜んでもらえるものはあるのか?
いつも考えてる。 

 

 

ソニーになるか、エルメスになるか。
「今できること」に囚われず、ちゃんと“魂”を見たい。